今月の書評-46

| | トラックバック(0)
おとそ気分もすっかり抜け落ち、週明けからは今年一年に向けてフル稼働すべく、やる気満々のセンセです。

で、アイヌ語=縄文語ではなく、アイヌ人=縄文人ではない!と強調してきたセンセですが、では、どんなものでもよいけど、縄文語って、ちょっとでもいいから、今の言葉に残ってないの?
と色々考えてみましたところ、一つひらめいた!


「エミシ」って、事によると、縄文語なのでは?


以下、エミシは縄文語だ!というセンセの妄想を開陳したいと思います。

弥生時代の始まりを水田稲作の開始から、と定義すると、およそ紀元前1000 年くらい前にさかのぼります。北九州のお話です。
列島の他の地域は、未だ縄文時代。
例の、亀ヶ岡文化の時代です。
ここから水田稲作を特徴とする弥生文化は九州においては南進を、他の列島においては東進~北進していくわけですが、西南日本においては縄文人の人口は希薄でしたので、若狭湾から伊勢湾を結ぶ線までは比較的速やか(それでも300 年くらいかかった)に弥生文化は浸透して行きました。
けれども、ここでしばらく足踏みします。なぜか。

東日本にはいまだ多くの縄文人が住んでいたから。

遠賀川式と亀ヶ岡式-2.jpg

けれどもじりじりと東進~北進を続け、前300 ~400 年ころには青森にまで到達します。
その後、稲作文化は東北三県から一旦消滅し、北海道からアイヌ人が南下してきてペツだのナイだの色々残していきますが、アイヌ人の南下もここまで。
山形~宮城以南から中部~関東にかけては、弥生人と縄文人が点在~混合した状況が数百年続くこととなります。

と、いうことはですよ?当然のことではありますが、弥生人が最初にencounter した異文化~異人種の連中はアイヌ人ではなく縄文人であったわけです。
当ったり前ですが。

で、その後には近畿に大和政権が生じて列島全体の行政権の一体化を進めていくこととなりますが、当然、近畿以東の特殊性は十分に認識されておりました。すなわち、そこの住人は「我々」とはちょと(あるいは相当)違う、という認識で、これを「エミシ」と呼ぶこととなります。

で、エミシという言葉の文献における初見は、日本書紀、神武記の「愛瀰詩」という単語ですが、いわゆる「万葉仮名」で書かれてます。これが程なく「毛人」に置き換わり、さらに時代が下ると「蝦夷」という字を当てることとなります。

愛瀰詩は万葉仮名ですから特に意味はありませんが、毛人という文字を当てれば意味明瞭です。今でいう「濃ゆい連中」というカンジで、縄文人の形質の特徴の一つを明確に表現するものです。従いまして、エミシ=単に東北に移住した弥生系の人々、であるはずがないのも当たり前です。

さらに、蘇我毛人(そがのえみし)などの例から明らかなように、当初は、エミシ=猛々しく勇敢な人々、という含みがあったと思われます。
大和政権の東進に対する彼らの強力な抵抗を裏付けるもの、とも言えます。

で、漢字はともかく「エミシ」という音ですが、関連した言葉は日本語にはありません。従いまして、弥生人が縄文人を表現するために作り出した単語ではなく、当の縄文人が自分たちを表現するために使用していた単語であるはずです。
で、「俺たち」とか「我々」とか「ヒト」とか、そんなカンジの言葉だったのでしょう。

で、日本書紀にすでに記載されている単語ですから、それ以前にはすでに使われていたのも明らかです。

以上を考え合わせると、弥生時代の人々が列島を東進~北進する際に遭遇した縄文人との接触の中で縄文人から得た言葉の一つが「エミシ」であり、時代が下るにつれてさらに意味を拡張してエゾ~エビスとなった、と、センセは考えてます。

「エゾやエビスはエミシよりもさらに北の連中であり、エミシとは多少とも文化を異にする連中である」という説もありますが、面白い見解だと思います。

一方、金田一京助や大野晋氏によれば、「ヒト」を表すアイヌの古い言葉に「エンチュ」という単語があるそうです。これが色々変化して「エミシ」になった、ということです。

たぶん、基本的には正しいと思います。

じゃ、エミシはアイヌ語?ということですが、違うと思います。

今月の書評-43」でも指摘したように、アイヌ語の中には縄文語から取り込まれた単語が存在している可能性があります。
「エンチュ」は古語であると同時に雅語であり、また、北海道ではなく樺太のアイヌの中にわずかに保存されていた単語であるということから、相当に古い時代の言葉であるのは間違いありません。加えて、歴史時代のアイヌ人が自らを「エンチュ」と読んでいたという記録も見出せません。
ということは、相当古い時代にアイヌ人の先祖と縄文人の先祖が始めて会遇したとき、まさに弥生人がそうであったように、アイヌ人もまた、縄文人(あるいは旧石器時代人である可能性も!)から、その言葉を獲得したのかもしれません。

従って、「エミシ」が古い言葉であり、これがアイヌ語に取り込まれた後に「エンチュ」となって残った、という可能性もあります。


以上、あることないこと、あるいはないことないことを述べてきましたが、結構、自信があります。合理的に考えて、どうあっても東日本の縄文人に初めて接触したころに得られた単語であって、ペツ~ナイの人々との接触によって得られた単語ではないと思います。

こう考えますと、現代においても東日本と西日本とは様々な点で異なるわけですが、東日本の人々にとってはなじみのある言葉だけど西日本の言葉とは大きく異なる言葉の中には、実は縄文由来の言葉が結構埋もれている可能性があるのでは?とも、時々思うセンセです。


坂城散歩道-24

| | トラックバック(0)
みなさまあけましておめでとうございます。
お正月はいかが過ごされましたでしょうか?

センセのお正月といえば、例年通り埼玉の姉の家で親戚一同うち揃い、お屠蘇を飲んでお酒を飲んで、早くも二日には長野に戻ってまいりました。
で、いつまでも食っちゃ寝してられませんので、箱根復路の結果も見えてきた三日のお昼時分、登山靴を履いて近くの水晶林道を芝峠まで雪山登山に挑戦してまいりました。「坂城散歩道-16」と同じルートなので、どうぞ併せてお読みください。

虚空蔵山 190103.jpg
今時分の坂城周辺の山々は山頂がうっすらと雪に覆われて、大体こんなカンジです。写真は、二年前に登った坂城町南面にそびえる虚空蔵山です。


水晶林道入り口.jpg
水晶林道の入り口も、うっすらと雪に覆われていました。
でも大したことない。
アイゼンもかんじきも、まだまだ必要ありません。


定点観測-1.jpg
定点観測。春夏秋冬、各季節ごとの写真を見比べてみてください。
登りだしの、日が差す場所には雪もありません。


木漏れ日.jpg
冬枯れの里山も、ナカナカ風情がありますね!


食われたカモシカ.jpg
と、いきなりカモシカの幼獣の死体がありました!昨年生まれたばかりの子供です。内臓は全て食われてます。犯人は???


死因-2.jpg
切崖から落ちてケガして動けなくなったところを、タヌキかアナグマに食べられてしまったのでしょうか?
以前、「坂城散歩道-10」で、切崖の下に大きなアナグマの死体があったのを述べたことがありますが、切崖って、小動物にとっては結構危険な場所なのかもしれません。
で、内臓を食べた犯人を探すべく、周りの足跡とか調べましたが、タヌキの足跡が最も多かったので、とりあえず犯人はタヌキとしときます。
けれどもその後に判定を覆すかもしれぬ証拠が・・・。後程・・・。


大峰山方面を臨む.jpg
大峰山方面を臨みます。お天気も良く、とても気持ちがいいですね!


雪の道-1.jpg
どんどん雪深くなっていきます。


雪の道-2.jpg
バイクで走るのが怖いところ。


雪の道-3.jpg
雪の進軍となりました。八甲田山だけはカンベン!


獣の足跡.jpg
カメラの電池が切れたので、ここからはスマホ画面となります。
たくさんの動物の足跡です。
ヒトと同じく、みなさん、林道をよくお使いのようで・・・。


砂防ダム.jpg
例の砂防ダムのところまで、漸くたどり着きました。
つららがつららってますwww。
ここから芝峠までは、ナカナカ厳しい道が延々と続きます。


水晶峠.jpg
到着!時刻は三時ちょうど。出発してから二時間半の登頂でした。


芝峠看板.jpg
証拠写真。


獣の足跡-2.jpg
辺りは色んな獣の足跡でいっぱい!
センセの足跡も残しときました。


熊の足跡.jpg
帰路にクマの足跡を発見!矢印がそうです。
間違いなく、クマです!
まだ冬眠していないヤツがいるようです!
先ほどのカモシカの幼獣を食ったヤツかもしれませぬ・・・。

センセも食べられないように、早く下山しないと!!!


夕日に映える雪道.jpg
帰路、夕日に映える雪の林道です。
ロマンチックですね!

登りは暑くて上着を脱いで半袖になって登ってきましたが、下りは寒くて上着を着て手袋をして帰ってきました。
耳も、手の指もちぎれそうになったので、次回はホッカイロだけでなく、スキー用の耳当てなんかもリュックに詰めていかなくては!


地図-3.jpg
これは「坂城散歩道-16」と同じもの。
帰宅は四時半。
往復でちょうど4 時間の雪中行軍でありました。

ではみなさま、今年もよろしくお願い申し上げます。




今月の書評-45

| | トラックバック(0)
紅白歌合戦もダウンタウンもものともせず、縄文に固執するセンセです。

さて、北海道には登別、紋別、芦別などのベツ~ペツの付く地名や、稚内、幌内などのナイが付く地名が多いのが特徴ですが、これらが「川」を意味するアイヌ語であることはご存知の方も多いかと思います。

で、これら、ペツとナイの付く地名が東北北部にも多く存在することも、知ってる人は知ってると思います。以下、分布図です。

ペツ、ナイ.jpg
一見して明らかなように、青森~岩手~秋田に多く分布してますが、宮城~山形となると減少し、福島~新潟には(たぶん少数はあると思いますが)見られません。

で、これらの東北三県にペツ~ナイの付く地名がこれほど多く残存していることから、これらの地域には、過去にアイヌ人が住んでいたことは明らかです。

で、問題は、これらの地名はいつ付いた?ということです。

もしも亀ヶ岡文化を生み出した連中が純粋のアイヌ人であったとするならば、これら東北三県のペツ~ナイは彼らが名付けたものである可能性は、あります。
しかしながら、図からも明らかなように、見事に、ある一線(二線?)で停止しています。沖縄にまで影響を及ぼした栄光の文化にしては、東北三県でピタッとペツ~ナイが停止しているのは不自然です。

恐らく、この一線の南には、南下を阻止するナンカ(ダジャレです)が存在していたと考えられます。

で、種明かし。

これらの地名は、4世紀から6世紀にかけて北海道から南下してきたアイヌの人々の残した遺産なのです。

問題:では、なぜ一線で停止しているのか。
答え:一線の南には、すでに北上を開始していた倭人と、元々そこに住んでいた元縄文人が居たから。

じゃ、亀ヶ岡文化を生み出した連中は何者なのか?
アイヌとはまったく関係ないのか?

ここからは個人的な妄想も加えたお話になります。

三内丸山の時代からすでに、東北北部と道南地方は、丁度朝鮮半島の南沿岸から北九州がそうであったように、一つの文化圏を形成しておりました。
道南地方の背後には、Deep North、樺太経由の人々=アイヌ人による、津軽~道南文化圏とは多少とも色合いの異なる縄文文化がありました。
その結果、津軽~道南文化圏は、アイヌ文化と縄文文化が互いに融合~刺激しあう場となったはずです。
加えてシベリアからのツングース系文化との交流もあり、農産物としてはソバを植え、道南の豊かな海産資源も利用して、列島の縄文文化が疲弊する一方で、ここに栄光の亀ヶ岡文化が花開きました。

けれども主体は縄文系であり、deep なアイヌ系とは異なるものでした。

紀元前3~4世紀になると津軽地方にも水田耕作技術が到達し、ナント、彼らはこれに挑戦!一旦は成功します。その結果、ここに東北の縄文時代は終焉を迎えることとなりました。

けれども程なく気候は再び冷涼化し、稲作は見事に失敗!
津軽サイドの元縄文人は再び南下し、東北は閑散とした状況となります。

一方、道南サイドの連中にとってはさすがに北海道での水田耕作の選択肢はなく、引き続いて縄文時代を送ることを選びました。
ここで一旦、津軽~道南文化圏は分断され、道南はdeep 系アイヌの影響を強く受ける状況となりました。「続(ぞく)縄文時代」の始まりです。

このような状況で数世紀が過ぎたころ、樺太からギリヤーク系の連中が北海道に到着、定住生活を送るようになりました。「今月の書評-24」でご紹介した粛慎(しゅくしん)=オホーツク人(ニブフ人の祖先)です。
アイヌ人とオホーツク人とは基本的には敵対関係にありましたが、それでも男女関係というのは敵対関係にあるほど燃えちゃったりしますので、アイヌのロミオと粛慎のジュリエットとの間には子供ができちやったりしたようでして、アイヌの血には列島の他の地域ではナカナカ見られないタイプの北方由来のDNA タイプが、すでに縄文時代においても明確に検出されます。

で、これらオホーツク人の侵入に押された結果、紀元後の4~6世紀、ところてん式にアイヌ人は津軽海峡を渡り、今や人口希薄となった東北地方に侵入していった結果が、東北地方に今に残るペツ~ナイの地名というわけです。
これらの流れは、基本的に、考古学的にも文献的にも、確かなものだと思われます。

で、再び自問自答したいと思います。

「もしも縄文人=アイヌ人であり、縄文語=アイヌ語であったとするならば、ペツ~ナイの地名は東北三県に限られることなく、ましてやあの一線で停止するようなこともなく、少なくともより南部の関東~中部~北陸までは、比較的良好に残っているはずだ!それがあの一帯だけに限定されるということ、それ自体が、縄文語とアイヌ語は違うということを意味するものだ!」

と結論付けたいと思います。

実際は、関東や中部などにも、僅かではありますが、ペツ~ナイの地名があります。有名なのは「黒部川」ですね!クルペツです。
また、日本語としては意味不明な地名もアイヌ語で解釈すると意味が通じる、などという例もいくつか見られます。
例えば東京~埼玉の古い呼び名である「武蔵(むさし)」ですが、日本語としてはイミフです。けれどもこれをアイヌ語で解釈すると、「草の野原」という意味になるということです。

しかしながら、こういうのは眉唾ものだと思います。

東北三県のペツ~ナイの分布と北海道アイヌの距離的な近さ、さらに考古学や文献に基づく確かさに比べ、イミフな地名を適当に拾い上げ、アイヌ語で解釈して意味が通じるからといっても、それを縄文語=アイヌ語の証拠とするには余りにも苦しすぎます。古代朝鮮語を研究してるヒトが日本各地の地名をバッシバッシと古代朝鮮語で切りまくった本を読んだことがありますが、同じ穴のミーアキャットです。

しかしながら、「ならば、本当の縄文語とはどういうものなんだ?」と聞かれても、「分かりませぬ・・・。」と答えるしかありませぬ・・・。

現代の我々が知っている地名のほとんどには、漢字がふられてます。これが、実は、厄介なのです。
漢字には「音(おん)」があると同時に、意味があります。そのため、「音」に付けた漢字の意味に引きずられ、「音」までもが変化する例がしばしば見られます。北アルプスの「白馬」が良い例です。

白馬って、「ハクバ」じゃないです。白い馬じゃないんです!
あれは「シロウマ」と読まなくてはならないし、「シロウマ」は「白い馬」のことじゃないんです!知ってるヒトは知ってると思うけど、知らないヒトはググってください!

ということで、漢字によって古い時代の読み方がひん曲げられてしまうので、地名から縄文語を読み解く研究は実に難しい作業だと思います。でも、地道に丹念に拾っていけば、事によると、思いもよらない言葉が実は縄文語だった、などという結果も、将来的には得られるかも知れません。

言語学の先生たちには大いに頑張ってもらいたいところです!


では、とりあえず「ゆく年くる年」だけはチェックしたいと思います。
それでは皆さま、よいお年をお迎えください。

ゴ~~~ン!



今月の書評-44

| | トラックバック(0)
大晦日です。
一昨日~昨日は自宅をテッテ的に大掃除いたしまして、身も心もスッキリと新年を迎えられそうです。

汚れちまった悲しみも、燃えないゴミとして処分しました。

さて、青森の三内丸山遺跡に代表される盛大を誇った縄文文化ですが、「今月の書評-33」でもご紹介したように、その後は急激にシュリンクしてしまいます。
そんな中にあって、縄文最後のきらめきとでも言うべきものが、同じく青森の亀ヶ岡文化です。例の、遮光器土偶を生んだ文化です。

亀ヶ岡文化は東北北部から北海道南部にかけて栄えた文化で、遮光器土偶の他、独特の文様とベンガラや漆による色付けが施された土器や漆器類、漆塗りの櫛や籠の出土でも有名な文化です。

以下、いくつかをご紹介。

亀ヶ岡-2.jpg
注口土器 http://inoues.net/ruins/3naikamegaoka.html 様より

亀ヶ岡-3.jpg
朱塗り土器 同

亀ヶ岡-4.jpg
合掌土偶 八戸市の縄文遺跡:是川遺跡(これかわ) https://blogs.yahoo.co.jp/nakagawa5939/37130344.html より

亀ヶ岡文化は、今からおよそ3000 年くらい前から紀元前3~4 世紀あたりまで続いた文化です。ですから、北九州に初めて水田耕作を伴う文化、すなわち弥生文化が現れたのと時を同じくして東北~道南に登場した文化です。
そして、水田稲作が青森に到達した、まさにその瞬間をもって終了した文化です。

時代はすでに歴史時代であり、大陸では殷~周~春秋戦国時代の頃です。
シベリアはツングースなどの北方系モンゴロイドが占める場所となり、亀ヶ岡文化の連中も、これら大陸との交易を行っていたと考えても不思議ではありません。個人的には、土器の文様や彩色、あるいは遮光器土偶の表面の文様などにも、大陸からの影響を感じますが・・・。

亀ヶ岡式の土器類は列島を南下し、関東~中部地方はもちろんのこと、北九州に及ぶに至っては、半島由来の初期の弥生式土器にも影響を及ぼしたほどに、晩期の縄文人を魅了した土器でした。
さらに驚くべきことに、沖縄本島からも、亀ヶ岡式土器の断片が出土しています。

まさに、縄文の有終の美を飾る文化であったと言えるでしょう。


さて、東北北部から道南を中心として栄えた亀ヶ岡文化ですが、この文化はアイヌ人が担ったものなのでしょうか?それとも三内丸山の生き残りの縄文人が作り上げたものなのでしょうか?

北海道南部に亀ヶ岡文化が広がっていたころ、北海道の他の部分にはどのような文化があったのでしょうか?