イスラエル軍、とうとう南部ガザ地区に進攻開始!
ハマス、イスラエルの核関連施設に向けてロケットを打ち込むも
アイアン・ドームで撃ち落とされる!
イスラエル、ハマスのトンネルの水攻めを計画するも、
「秀吉かっ!?」の突っ込みが殺到!!!
アメリカのオースチン国防長官が
「このままではイスラエルは戦術的には勝てても戦略的には敗北する」
と発言しましたが、
その通りだと思います。
これでは世界中の世論は沸騰してハマスの思う壺だし、
そもそもトンネル内の人質はどうなるのか?
加えてヨルダン川西岸地区で
イスラエル人入植者による乱暴狼藉も報道されている。
ネタニヤフ氏、頭に血がのぼっているのは分かるが、
一旦、自らバケツの水でもかぶって出直した方がよろしかろう!
これに加えてベネズエラとミャンマーで動きが・・・。
さてさて・・・。
さて、アンダルシアのイスラムのお話をするつもりでしたが、
ちょと待っててね。
明日の夜の 9:00 から NHK BS で
過去ログでも一度お話したことのある内容の、
センセにとってはチョー興味ある番組が予定されているので
それを見てから「スペインとイスラム」のお話をします。
世田谷散歩道?
って、いきなり何だべ???
ということでありますが、
昨晩のブラタモリで、タモリ氏と野口さんが世田谷を歩いていた!
世田谷はセンセが 4~5 歳から小学校 5 年生の前半まで生息していた場所だ!
ワ~イ ♪
ということで、今回は、
5 年前に経堂の東京農大で行われた乳酸菌学会に出席したあと
一人でブラ散歩したときにブラ撮った写真をブラ載せてお話したいと思います。
この年はコロナ直前の年でブラ OK でしたが、学会、真夏に行われたので、
めちゃくちゃ暑かった!
経堂から豪徳寺まで一駅は小田急線で行って、
豪徳寺駅から商店街を抜けて八幡様~豪徳寺~世田谷城を通って
区役所~国士舘大学を横目に見ながら梅が丘の友人の家まで歩いて行った。
暑くて暑くて汗だくで、途中、ホント死にそうだった・・・。
下の写真は豪徳寺駅から商店街を下って
我々小学生が「ケチ幡堂」と呼んでいた文具~模型店前の玉電の踏切です。
ケチ幡堂は、踏切を渡った先の写真右手角にあった。
ここで外人の若い女性が、ナンカ、小さな人形を踏切前に置いて
写真を撮っていましたが、
たぶんその後に SNS なんかに投稿するのであろう。
で、このケチ幡堂前の踏切を渡って左に折れて、まずは八幡様まで行った。
これがケチ幡堂前の踏切。
名前の由来は大体分かると思いますが WWW。
それにしても小学生というのは、昔も今も、
あだ名をつけるにおいては天才的な才能を発揮するもので・・・。
八幡様を裏から入って表に抜けた。
奉納相撲の土俵もそのまま残り、雰囲気は昔と全く変わってなかった。
八幡様を表から見たところ。
茅の輪くぐりがありました。
宮の坂駅の踏切。
昔と変わりません。
昔は、この踏切向こうの白い建物(たぶん右の方)は本屋で、
少年サンデーとか少年マガジンとか付録がたくさんついた月間マンガ誌とか
平積みに置かれてましたが、
センセが小学 2 年生のとき、
忘れもしない赤塚不二夫の「おそ松くん」の連載が始まりまして、
この店の前で鼻水をた垂らし垂らししながら立ち読みしつつ
ギャハハハ大笑いして読んでいたのもいい思い出です。
本屋のオヤジにとっては悪い思い出かも知れませぬが・・・。
豪徳寺の山門前です。
センセの家は、向かって左に 10 メートルくらいのところにありました。
山門の右わきに小さなお店があり、
お参りする人々のためにお線香やお墓に手向ける花とか、
例の招き猫の人形というか猫形というか、
などを売っておりました。
山門から参道を臨みます。
今は舗装されてますが、昔は玉砂利の道でした。
向かって左側に、昨晩のブラタモリで登場した団地があります。
タモリが「団地ともお」の話をした場所です。
センセは団地ともお、って知りませんが・・・。
この団地はセンセが小学生の時からあったので、
相当古くからあることになります。
それでも戦後だとは思いますけど・・・。
たぶん、都住だと思います。
この都住の建設に関わっていたのかいないのか分かりませんが、
直ぐ近くにいわゆる「飯場(はんば)」がありました。
最近の飯場は立派なものですが、
センセの頃はもっと原始的で、
文字通りの掘っ立て小屋にアンペラを敷いたようなものでした。
昭和 40 年代くらいになって、いわゆるプレハブ形式となりました。
この飯場で働いていた一家族の息子がセンセの同級生におりまして、
センセと仲良かった。
で、一度招かれてこの飯場にお邪魔しましたが、
彼のお父さんとお母さんが大変優しくて、
ニコニコもてなしてくれたのをとてもよく覚えてます。
たぶん、彼らだと思いますが、
いわゆる「ヨイトマケ」による工事を
山門前で行っていたのを見た記憶があります。
後にも先にもこの一回限りです。
何の工事であったのかは分かりませぬ・・・。
その後は直ぐに大型機械で打ち込む方式が主流となりました。
団地から下の道に抜ける途中には、
たぶんタモリらも通ってきたと思いますが、
湾曲した坂があり、
坂の途中には貸本屋がありました。
ワチサンペイのマンガや、
水木しげるの「河童の三平」なんかを借りて呼んでました。
山門を入って右側に立派な鐘楼があります。
写真では木々に隠れて少し分かりづらいですが・・・。
昔は大晦日になると近くの住民が集まって鐘を突きましたが、
今でもやっているのでしょうかね?
豪徳寺の本堂です。
センセが幼稚園の時、ここで花祭りを行いました。
センセもお釈迦様の像に甘茶をかけたあと、甘茶を飲みました。
うす甘かったです。
因みに、当時は豪徳寺の裏の方にその名も豪徳寺幼稚園があり、
お寺の住職さまが園長先生でした。
たぶん、今では幼稚園は無いと思います。
左に曲がって行くと、右手に例の招き猫のお堂があります。
写真の右側の門が入り口です。
当時も数組の外人観光客が写真を撮ってました。
現在はもっと数が増えていると思いますが・・・。
ブラタモリによれば、奉納されているネコ像は 1 万体以上だということです。
「ネコ寺」ということからでしょうが、
昔は境内にしばしば捨て猫が箱などに入れられて捨てられておりまして、
小学生のセンセはこれを可哀そうに思って拾ってきて母親に怒られる、
でも、拾って来たネコを程なくみなで可愛がりだして結局は家族となる、
というおなじみのパターンを二度繰り返しまして、
最初のネコは「ドラ」、二匹目は「チビ」と、
名前もおなじみパターンでありました・・・。
お堂の前にあるのが「無名戦士の墓」。
ナカナカおどろおどろしい建造物です。
豪徳寺界隈で、センセらは、2B 弾やら銀玉鉄砲やらを繰り出して
ドンパチドンパチ戦争ゴッコばっかしやらかしていたという・・・。
いまから思えばとんでもない罰当たり連中でした。
すんごく面白かったけど・・・。
豪徳寺を後にして、ブラタモリでもやっていた世田谷城に行きました。
写真手前は世田谷城址公園です。
ブランコもあります。
公園は、センセらが小学生の頃に作られました。
昨晩の話では、城址公園に面する道は、以前は川であったとのこと。
初めて知りました。
センセが通っていた「城山小学校」はこのすぐ近くにありますが、
城山小学校のすぐ横に川があり、これは烏山(からすやま)川で、
センセの家族が豪徳寺に移る前に住んでいた世田谷区上馬の家の
すぐ裏に通じる川でした。
いまでは暗渠となって、遊歩道みたくなっているようです。
♪ 城山の森、風さわやかに~~~・・・
城山小学校の校歌、今でも覚えてますよ~~~!!!
公園の階段を登って行くと、お城の曲輪(くるわ)や堀切などが出てきます。
写真のベンチにはコンビニ弁当のゴミが捨てられておりました。
世田谷住民ッ!
これは堀切。
センセら城山小学校の小学生にとって、
世田谷城はまたとない 203 高地でありました。
ここから何度突撃して討ち死にしたことやら・・・。
世田谷の土質はいわゆる関東ローム層ですので、
ポクポクした赤土で出来てます。
これが「泥投げ合戦」に打ってつけのものでしたので、
城の上から投げられてくる土くれをものともせず
「吶喊(とっかん)亀くん吶喊~~~!」を繰り返して占領すれば勝ち!
という、ナカナカ荒っぽいものでした WWW。
あ、そうそう、ここら辺の事情は過去ログに詳しく書いてありますので、
よろしければ読んで下され ♪
「中山博士の横顔 その-4 世田谷区豪徳寺時代」あたりから
シリーズで載ってます。
但し、行ったら戻ってこれないかも知れないので、
くれぐれもご注意を!
では、晩秋の週末を暖かくしてお過ごしください。
さて、「アラーの前ではみな平等」をスローガンに掲げて
勢力を伸ばしてきたイスラムでしたが、
ウマイヤ朝においてはアラブ人であるか否かで差別されるなど、
スローガンに偽りあり!の状況でした。
特に、
「昔の俺たちは文明人!」と思っていたであろうペルシャ人の間では、
せっかくゾロアスター教を捨ててイスラム教に改宗したのに
「昔のお前らは野蛮人!」と思っていたであろうアラブ人から差別されては
それは腹も大いに立つことであろう!
で、ペルシャの地では
「今月のウクライナ-158」でお話したシーア派が勢力を伸ばしていたので、
シーア派のペルシャ人による反乱が頻発しました。
アッバースはアラブ人でしたが、
このペルシャ・シーア派の力を利用してウマイヤ朝を倒した、
というわけです。
で、ウマイヤに関係する一族を根絶やしにしてしまいますが、
ただ一人、殺戮から逃れたオトコがイベリア半島に渡り、
後(こう)ウマイヤ朝を打ち立てることに成功します。
後ウマイヤ朝に関しては、そのうちにお話したいと思います。
で、シーア派の力を借りて政権を奪取したアッバースでしたが、
アラブ人勢力を取り込む必要からスンニ派に鞍替えしてしまいます。
これに怒ったシーア派はアッバースに対しても反乱を繰り返しますが、
アッバースは「アラーの前ではみな平等」主義を徹底することによって
ペルシャ人の支持を取り付けることに成功!
ここに、旧弊を引きずる「アラブ帝国」から、
真の意味での「イスラム帝国」が誕生することとなりました。
「アッバース革命」とも呼ばれる一大改革です。
首都もウマイヤのダマスカスからバグダッドに変更され、
ペルシャの官僚機構を受け継ぎ、
アラビア語を公用語に定め、
軍隊もこれまでのベドウィンの集合体みたいなものから
給与を支払う常設軍を設けるなどして国家体制の変革を行い、
さらには紅海~地中海~中央アジアを押さえる形となったおかげで
シルクロード~インド洋~東アフリカ沿岸の要所を固め、
西は地中海諸国から東はインドを経て唐に至るまで通商を広げた結果、
世界中の富がバグダッドに集まる形となり、
バグダッドは当時の世界最大の繁栄を誇る一大都市となりました。
因みにバグダッドとはペルシャ語で「神の都」という意味だそうです。
第 5 代のカリフであるハールーン・アル・ラシードと
その息子の第 7 代カリフ、アル・マアムーンの時代には文化も大いに栄え、
バグダッドに「知恵の館」と呼ばれる学問所を設け、
ササン朝ペルシャ時代にギリシャからこの地に移植された
古代ギリシャの哲学や科学はことごとくアラビア語に翻訳され、
さらにはインド哲学やインド数学も移入されるなど、
バグダッド・ルネッサンスとも呼ばれる文化の華の時代を迎えました。
「今月のウクライナ-124」でお話したように、
ささいな違いによって教義の争いを繰り返していたビザンツでは
せっかくの古代ギリシャの学問を受け継ぐことができず、
この先は暗愚の時代に突入していくわけですが、
古代ギリシャの学問は、
まずはペルシャ、その後はアッバース朝へと受け継がれることとなり、
錬金術から派生した化学などもこの時代に大いに発展することとなります。
「アルカリ」などはこの時代のアラビア語です。
また、アッバース朝成立の翌年、西暦 751 年に、
中央アジアのタラス川河畔で発生した唐との戦いでは唐軍を打ち破りますが、
その時に得られた捕虜の中に「紙職人」がいたおかげで
紙の製法がこの地に伝わることとなり、
これもまたイスラム文化を押し上げる重要な要因の一つとなりました。
このような「紙」に書かれたこの時代の有名な書物が「千夜一夜物語」、
いわゆる「アラビアンナイト」です。
この物語の元となったものはササン朝時代のものであったようで、
これを基にしてアッバース朝時代の話が加わり、
最終的には 18 世紀のフランス、ルイ 14 世の時代に整えられ、
新たな話も付け加わって、現在の我々が知るところのものとなったようです。
アラビア語で紙に書かれた千夜一夜物語 ウイキより
http://expositions.bnf.fr/livrarab/gros_plan/mille/mille_2.htm,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=574874による
この物語のあらすじは皆さまご存知のことでしょうが、
誰しもが知っているアリババはアラブ人、
シンドバッドはインドの商人、
物語を語るシエラザードはペルシャの娘、というように、
まさにこの時代のインターナショナルな文化の中心から生まれた物語、
と言えるかもしれません。
リムスキー・コルサコフの組曲、「シエラザード」を挙げときます。
有名な第三楽章は、 22:30 辺りから始まります。
殺されまいと必死に語るシエラザード ウイキより
フェルディナント・ケラー - Sotheby's London, 13.June 2006,
lot 236 via Arcadja auction results, パブリック・ドメイン,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28397584による
ついでにこっちも載せときます。
シエラザードの妹、ドウンヤザードです。 ウイキより
ジョン・フレデリック・ルイス -
The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM)、
distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202.,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=153851による
個人的にはこっちが可愛いです♪
因みに、女子プロゴルファーのセキ・ユウティンの妹も激カワです♪♪♪
あくまでも、個人的な感想ですが・・・。
あ、もちろんお姉さんもカワイイです!
ガザでは人質の交換が比較的スムーズに行われているようですが、
今後の成り行きには不透明な所もあります。
結局のところ、ハマスは一体何をやりたかった、
あるいはやりたいのでしょうかね?
北部ガザ地区は文字通りの焦土と化し、
休戦も一段落すれば、イスラエル軍は南部も攻撃すると言ってます。
仮に現状のままで南部攻撃に踏み切れば
さらなる数の住民が巻き添えを食う形になりますので、
世界中からの非難の声が今以上に高まること請け合いです。
ハマスはそれを狙っているのだ!としかセンセには思えない・・・。
穿った見方かもしれませんが、
身内であるガザ地区住民を人身御供に世界中の同情を喚起して、
他力本願により現状を塗り替える一助とする、
と考えているとしか思えない・・・。
紛争終了後は、確かに、ネタニヤフ政権は崩壊すると思いますが、
それ以上のことがこの地に生じるか否か、これまた不透明です。
個人的には、やはり、パレスチナ国家を作り、世界がこれを承認し、
承認された国家としての責任を彼ら自身に持たせる、
という形が有効であると思いますし、
現状の占領下ラインに留まらず、両者共に安全が保障される形での
新たな線引きを行うのも有効だと思いますが、
言うはやすし横山きよし的な問題ではあるのは間違いありません。
さて、東は中央アジアから西はイベリア半島に至るまでに
イスラムの版図を広めたウマイヤ朝ですが、
平等主義を唱えるイスラム教の本来の教えとは異なり、
実質的には「アラブ人のためのイスラム教」であったり、
また、統治においてはウマイヤ家中心の身内主義を採用したりで
各地に不満が高まり、反乱が頻発するようになりました。
そんな中、中央アジアのホラーサンにおいて興った反乱を利用して
モハメットの伯父の子孫であるアッバースがウマイヤ朝を倒し、
アッバース朝を開きます。
西暦 750 年のことです。
アッバース朝の最大版図 ウイキより
Umayyad750ADloc.png: Gabagoolderivative work:
Bassem (talk) - Umayyad750ADloc.png, CC 表示 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15024989による
イベリア半島の深緑色は、
今後に述べる予定の後(こう)ウマイヤ朝の領地です。
先週は月曜から金曜までみっちりとマウスを用いての実験。
おかげで土曜~日曜は言うに及ばず、
週明けの月曜日もベッドから起きることができず、
丸三日間、文字通りへたばってた・・・。
トシだわ・・・。
で、本日火曜日になってようやく元気も回復したので、
久しぶりにブログを更新してます。
今回の実験はセンセの最後の実験となるかもしれず、
ならないかもしれず、
また、免疫系の仕事なので近交系のマウスや抗体、
さらには ELISA プレートなどを購入しての仕事となるので、
費用もかかります。
失敗は許されません。
だもんで予備実験に数か月を費やすなど
気合を十分に入れてここ一番、本番に臨みました。
で、本日、結果をざっとまとめてみたところ、
どうやら成功のようす!
期待に沿った結果が得られそうです!!!
よかったあ~~~~~♪♪♪
論文にまとめたら、ホームページで抄録を公開する予定です。
さて、センセが必死になってネズミを解剖している間にも
世界情勢は大きく動いているようです。
ロシアでは過去にプーチンを批判した空軍中将が夫婦共々ガス中毒死・・・。
プーチンを批判した人々は、不思議なことに、例外なく、
不思議な死に方をするようです。
不思議ですね!何故なんでしょうね?ちっとも分からないや・・・。
一方のウクライナ。
昨年に発生した例のノルドストリーム爆破事件ですが、
数か月前にも WSJ や NYT などで
「実はウクライナ情報機関の仕業だ!」と報道されてましたが、センセは、
「いや違うだろ。
頭下げて EU に武器援助を求めて大陸を行脚しているゼレンスキー大統領が
自分の足を引っ張るようなことを自らするはずないだろ?
また、ウクライナは、基本、内陸国だろ?
黒海なんてのは内海だわ!
連中に、
北海の冷たい海に潜っていたずらするような know-how ってあるのかしらん?」
と思ってましたが、
最近の報道によれば、ウクライナ情報機関の関与が取り沙汰されてます。
要するに、ゼレンスキーは知らなかった、ということです。
張作霖爆殺事件や満州事変などのように、
政府中枢に知らすことなく内密にことを図るような例は過去にもありましたが、
今回の件が仮に本当であるとしたら、
大問題となるのは間違いありません。
ウクライナ政府が全面的に否定しているのは当然ですが、
不思議なことに、
当のドイツ政府からの反応が、少なくとも現時点、ほとんど聞かれません。
個人的にはロシアの相変わらずの偽旗作戦だと思ってますが、
ウクライナ側も
徴兵所での賄賂の横行を含む徴兵逃れが多数発生するなど
「ウクライナ人は全て清廉潔白である」とは決して言えない現状ですので、
この件に関しても、「全くの白だ!」とも言い切れませんが・・・。
イスラエルとハマスに関しては、
ガザ地区の状況は大変悲惨なことになっていますが、
一応、人質解放に向けて短期間の停戦合意に向けて動いているようです。
合意できるかどうか、これまた現時点では分かりません。
それよりか、
「今月のウクライナ-129」以降にしばしお話してきた
「応仁の乱」のイエメンですが、
乱の一方の当事者であるフーシ派の連中が
日本郵船が運航する大型輸送船を乗っ取った!
しかもヘリコプターで甲板に乗りつけて乗っ取るという大掛かりなものだ!
現代版の村上水軍みたいなもんだね!
船そのものはイギリス人所有のもので、日本もイスラエルも関係ないようだし、
船員には日本人もイスラエル人もいなかったようだが、
連中、どういうわけか、拿捕した。※
※船主の一人がイスラエル人だそうです。
フーシ派は、
先日はイスラエルに向けてロケットを発射して米軍の船に迎撃されている。
ニュースの映像を見る限り、連中の装備はナカナカのものだ。
バックにはイランがいる。
ヒズボラとフーシ派はシーア派で、ハマスはスンニ派。
前二者はイランの直接の手先と言ってもよいかと思うが、
ハマスの場合はどうなんでしょうか?
今回のハマスの攻撃は極秘裏に行われた可能性が高いので
イランのアヤトラも知らなかったと思われますが、
せっかくの機会なので、
ここぞとばかりにフーシを焚きつけてゴタゴタやらかしている、
ということでしょうかね?
ゴタゴタやらかしてはいるけどヒズボラとの連携も見られないことから
単純に反イスラエルの意思を示しました、
というだけのことなんでしょうけどね!
因みに日本郵船、センセは 10 年以上も昔に株を買ったが、
あれよあれよという間に値下がりし、
配当も無くなったので、
いつの間にか忘れて塩漬けとなっていた。
で、一昨年、唐突に配当のお知らせが送られてきたが、
その額が結構高い!
可笑しいと思い、株価を調べてみたら、ナ、ナント、
いつのまにやら爆上げしてる!
で、速攻で売ってほくほく顔していたら
その後にさらに上げること上げること!!!
ほくほく顔が泣きべそ顔になったのは言うまでもありませぬ・・・。
東部の前線で部下への勲章授与式を行っていたら攻撃されて
20 名以上が死亡したり、
キエフでは将校が自分の誕生日に同僚から送られてきた手榴弾が爆発して
死んだり、
オイオイ、キミたちたるんでおるのではないのか!?
ペシペシ!!!(往復ビンタ)
でも、クリミア南部のロシア軍造船所をミサイルで攻撃して
新造のコルベット艦に損傷を与えて就航前に廃艦にしたので
チャラにしときます。
さて、正統カリフ時代には
早くもエジプトとペルシャの全土を手中に収めたイスラム教徒でしたが、
ウマイヤ朝の時代にはさらに領土を広げていきます。
各地に遠征するイスラムの将軍たちは出先で軍事拠点を設け、
攻略した都市や町から奪った品々や金銭、
あるいは支配下の非イスラムから得られる税金などを元にして
さらに領土拡張に努めた結果、
東においては現在のパキスタンからアフガニスタンを、
西においては
リビア、アルジェリア、モロッコにまで到達して大西洋を臨んだのみならず、
ジブラルタルを渡ってイベリア半島に渡り、
さらにはピレネー山脈を越えてフランク王国に進攻!
西暦 732 年には「今月のウクライナ-79」でお話した
「トゥール・ポワティエ間の戦い」に至ります。
サハラ以北のアフリカの地をマグレブ、以南の地をサヘルと呼びますが、
アラビア語です。
マグレブは西方の意味で、サヘルは岸辺という意味だそうです。
で、マグレブ地域には原住民としてベルベル人が住んでおりましたが、
この地はカルタゴ~ローマ~ヴァンダル~ゴートなどによって
コロコロと支配者が変わっていった地域です。
支配者が次々と変わってもベルベル人はベルベル人として存続し、
現在でもこの地域に幅広く居住し、
有名な砂漠の民、トゥアレグ族などもベルベルの一派です。
特にアルジェリアやモロッコの山岳地帯などに数多く居住し、
9 月に発生した大地震では数多くの被災者を出したのは記憶に新しい所です。
トゥアレグ族 ウイキより
Dan Lundberg - Flickr, CC 表示-継承 2.0
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3255442による
ベルベルの呼び名の由来ですが、
古代ギリシャ人が異民族に遭遇した際、彼らが話す言葉を聞いて
「ブラブラブラ・・・」としか聞こえないので、
「ブラブラ=バルバロイ=野蛮人」と名付けた。
その後にローマ人が北アフリカを植民地化した際、
「ブラブラブラ・・・」と話す野蛮人に遭遇したのでベルベル人と名付けた、
と言われてますが、
現代のベルベル人は、もちろん、野蛮人ではありませぬ。
で、「今月のウクライナ-23」でお話したように、
アラブ人、ベルベル人共に「アフロ・アジア語族」に属しますが、
もちろん、言葉が通じるわけではありません。
また、当然ながら、マグレブへのアラブの侵攻以前はイスラムではないですし、
習俗なども異なるわけですが、
基本、砂漠の民であることから、
日本人などの外部の目から見ると、似たような人々に見えます。
そもそもが
トゥアレグ族とベドウィン族を見分けられる日本人は珍しい!
と思いますが・・・。
ラクダに乗るベドウィンの若者 ウイキより
http://www.dmitrimarkine.com, CC 表示 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4400153による
で、当初、アラブの侵入に対して彼らは激しく抵抗したわけですが、
次第にイスラムの軍門に降り、
イベリア侵攻の際にはその先兵となり、
現在ではすっかりイスラム化し、
言語も、少なくとも公的には、アラビア語を話す人々が多数ということです。
ベルベル人の男 ウイキより
CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1083270
さて、正統カリフの 4 代目としてアリーという名の人物が登場しますが、
彼はマホメットの数多い従兄弟(いとこ)の一人であるだけでなく、
子供の頃はマホメット夫妻に育てられ、
さらにはマホメットの娘と結婚しますので、
義理の息子という関係でもあります。
要するに、マホメット家に非常に近い人物でした。
けれども彼をカリフとして頂くかどうかに関して
信徒の間で熾烈な内紛が生じ、
色々なゴタゴタの中で、アリーは暗殺されてしまいます。
「アリーに血統的に繋がる人々こそがイスラムの代表であり、
指導者(イマーム)である」と考える人々がシーア派ですが、
シーアという言葉はそもそも「派」の意味であり、
本来は「アリー派」と呼ばれていたわけですので、
シーア派と言えば「派・派」ということになり、可笑しいわけですが、
でも日本ではこれがすでに通称となっているので、
これはこれで構わないと思います。ハハハハ。
このような争いの中から台頭してきたのが
ウマイヤ家出身のムアーウィヤという名のオトコで、
シリアのダマスカスを根城にアラブ駐屯軍を指揮して内紛の終息に成功し、
西暦 661 年、正式にカリフとして認められます。
一応、歴史学的には、この時にウマイヤ朝が成立、ということになってます。
要するに、
その後に死期が近づいた彼は後継のカリフとして自分の息子を指名しますが、
世襲により権力の維持が図られる政体のことを「王朝」と呼びますので、
ウマイヤ朝の名が冠せられるわけです。
しかしながら、
神の使者たるマホメットの教えを紐帯として戦ってきたイスラム教団ですので、
「世襲なんぞとんでもねーだ!」という輩が現れるのも当然です。
で、各地に自称カリフが台頭して、
アラブは再び内乱の渦に巻き込まれることとなりますが、
ウマイヤ家のカリフはメッカとメディナを拠点としていたカリフ一派を攻撃し、
これを掃討することに成功!
イスラム教誕生の地であるメッカとメディナは灰燼と化し、
カーバ神殿も焼け落ちますが、
後でちゃんと建て直したことは言うまでもありません。
ウマイヤ朝は、ここに漸くアラブ統一を成し遂げ、
政治的に安定した時代が中東の地に到来しました。
マホメットから正統カリフの時代はひたすら戦いに明け暮れる日々でしたが、
ウマイヤ朝のもとで統一成ったアラブは、
もはやボロをまとった遊牧民の集合体というわけにはいきません。
征服地には数多くの異教徒もおりますし、
各地に拠点を持つイスラム軍団を束ねていかなくてはなりませんし、
税収確保のためにはさらなる領土拡張を続けていかなくてはなりません。
このような目的を達成するには、
これまでのようなイスラム教によって結びついただけの組織、
すなわち教団=共同体(ウンマ)、
でのみ通用するような単純な政治形態からの脱却が必要となります。
要するに、一気に強大となって
多くの他民族を領内に抱えることとなったイスラム国は今や「帝国」であり、
カリフは「君主」ということになりますので、
官僚制や独自通貨の発行、公用語としてのアラビア語の普及など、
領地を安定的に統治する行政手法を確立する必要性が生じてきました。
新たに生まれたイスラム帝国ですが、
ローマやペルシャという優れた「お手本」があったおかげで
まずは彼らの官僚制度を踏襲し、発展させていったようです。
ダマスカスのウマイヤ・モスク ウイキより
Original uploader was Isam at en.wikipedia -
Transferred from en.wikipedia., CC 表示-継承 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=70326による
入り口の柱に並んでいるのはコーランの自動販売機、
ではなさそうです・・・。
現在でも使用されているモスクの中で、最も古いものだそうです。
(ウイキより引用)
86 歳のじいさんが拳銃を振り回しながらバイクに乗り、
家に火をつけるは病院を襲撃するは人質を取るはと大暴れ!
その衰えを知らない情熱と実行力を若いうちから他の方向に向けていれば
今頃は巨大コングロマリットの総裁にでも収まっていたことであろうに・・・。
雲一つない秋の日々が続くこの頃ですが
ブタクサの花粉症と突然の夏日による血圧低下により
せっかくの三連休も外出すらままならないセンセとしては、
ある意味うらやましくも感じられる御仁ではあります WWW。
さて、対ローマ戦を優位に進め、
ホスロー二世の時には最大版図を見たササン朝ペルシャでしたが、
その後にローマに大敗し、王朝内部のもめごとにも事欠かずで、
全体の国力は衰退しつつありました。
この機会を逃さず、アラブ軍は、
当時はペルシャ領だったメソポタミア地方に侵入していきます。
これに怒ったペルシャ皇帝、ヤズダギルド三世は大軍を送り、
現在のイラクの首都、バグダッド近郊のカーディシーヤという場所で
西暦 637 年、両軍が対峙します。
衰えつつあるとはいえ栄光のペルシャ軍 vs 新興勢力のアラブ軍ですが、
アラブの将軍は
ペルシャの首都、現在のイラクに位置するクテシフォンに使節を送り、
ペルシャ皇帝ヤズダギルド三世に向かって、例の
「イスラムに改宗するか戦うか、どちらも嫌なら税金を納めよ!」
と臆面もなく通達しますが、皇帝、
「お前らのような
かくもみすぼらしく哀れな風体の連中はこれまでに見たことがないワ WWW!
これを土産にやるからとっとと帰って農作業にでも励め!」とばかりに
ペルシャの土を詰めた袋を土産として使者に持たして追い返します。
使者が持ち帰ったペルシャの土を見たアラブの将軍は
「ペルシャの土を持ち帰る、すなわち、ペルシャの国土は我々のものじゃ!」
と将兵を鼓舞し、戦いが始まります。
鞘(さや)を投げ捨てた佐々木小次郎に対して、武蔵が
「小次郎、既に破れたり!」と言い放ったのと同じ発想ですね!
カーディシーヤの戦いでは、ペルシャ軍の総数はおよそ 10 万、
対するアラブ軍は 3 万 5 千人ほど。
しかもペルシア軍には重装備を施した象(ぞう)軍団までおり、
これにはアラブ騎馬隊も当初は苦戦したようですが、
アラブ兵は馬から降り、
弓矢で象の背に乗っている御者を狙い打ちにしたり、
長い槍で象の目や鼻を衝くなどの戦術をとった結果、
おじけづいた象はパオ~ン!とばかりに背中を見せてドドドド退却!
戦いは数日間続きましたが、
最後はペルシャの将軍は打ち取られてしまい、
アラブ側の勝利となります。
その後、アラブ軍はペルシャの首都、クテシフォンに進攻し、
これを攻め落とした結果、
ヤズダギルド三世は故地のペルシャ高原に逃亡。
繁栄を謳歌したクテシフォンはアラブの手に落ち、
アラブ軍は莫大な戦利品をも手にします。
ここを拠点としてアラブ軍はペルシャ本土にまで侵攻!
ペルシャ皇帝は捲土重来を期して再び戦いを挑みますが、
敗れ、
ヤズダギルド三世は中央アジアのホラーサンに落ち延びていきます。
皇帝、東の大国の唐に救援を求めますが、袖にされ、
ホラーサンのペルシャ総督にも裏切られ、
最後は一盗人の手にかかって殺されてしまい、
ここにササン朝ペルシャは滅亡してしまいます。西暦 651 年です。
因みに、彼の子供は唐に亡命し、
そこで亡命政権のようなものを立ち上げるのですが、
ペルシャ再興の夢はかなわず、
長安の都で客死することとなりました・・・。
国教であったゾロアスター教も徐々に衰退していきますが、
初期のイスラム教はアラブ人を対象とした宗教のニュアンスが強く、
ササン朝の崩壊によって
ペルシャ全土が一気にイスラム化したというわけではないようです。
「イスラムに改宗するか戦うか、どちらも嫌なら税金を納めよ!」
というのは建前で、
みんながみんなイスラム教徒になっちゃうと税金が入って来なくなるので、
一応カッコつけて啖呵を切った口の乾かぬ間もなく、
「いや、無理して教徒にならなくてもいいよ!但し税金は納めてね!」
というカンジだったんじゃないかな?
1977 年に公開の映画、「メッセージ」のポスター
FLICS FREAK様のブログより
https://ameblo.jp/th0529/entry-12346785419.html
ありがとうございます!
アンソニー・クインが登場するこの映画、
センセもロードショーで見ました!
主演はマホメットなので、演じる俳優はおりませぬ。
お分かりで・・・。
マホメットの目線=カメラ目線で構成されてます。
イスラムの映画ですので真面目な展開で、
ハリウッド映画のようなお定まりのロマンチックシーンなどは皆無!
全編戦闘シーンに満ち溢れて※、
すごく面白かったです!
YouTube で現在見れますので、載せました!
是非、ご覧になってください!
※ほぼ同時期に公開されて主演も同じアンソニー・クインの映画、
「砂漠のライオン」のイメージが、
センセの頭の中で混在している模様です・・・。
あちらでもこちらでも人質人質で大変です・・・。
さて、アラブ世界で売り出し中のマホメットですが、
イスラム教徒も増え、軍団も大きくなり、シリアに向けて進軍!
いくつかの町を攻略して帰還したのち、彼自身で初のメッカ巡礼を果たします。
待望の巡礼を終えてメディナに戻ったマホメットですが、
体の不調を訴えるようになり、西暦 632 年、60 歳で死去します。
彼に付き従ってきた教徒たちですが、後継者を選ばなくてはなりません。
この後継者のことをカリフ、あるいはハリーファと呼びます。
マホメットから 4 代続くこととなるこのカリフ時代のことを
「正統カリフ時代」と呼びますが、
彼らはマホメットと苦楽を共にして戦って来た人々で、
彼の教えをリアルタイムで耳にし、実践してきた人々です。
アブー・バクルという名のオトコが最初のカリフとなりました。
マホメットが死ぬと、
新興勢力であるイスラム教団に対して反抗する連中が現れるようになりました。
彼らは「我こそが預言者である!」とか言って各地に勢力を形成しますが、
これはすなわち、
マホメットの「啓示」に続く政治的成功をまねて唱えられた称号です。
で、「真の」イスラム教団としては当然見過ごすわけにはいかないので、
アブー・バクルは彼らを「偽(にせ)預言者」として各個に撃破し、
メディナのイスラム政権はさらに強固なものとなっていきます。
で、勢いに乗ったイスラム軍は、
当時のシリアを治めていた東ローマ帝国と一戦を交える決意をします。
この時のカリフは二代目で、
アラブ側はハーリド将軍をシリアに向かわせる一方で、
ローマ皇帝側もこれを迎え撃つべく、大軍をシリアに送ります。
両軍、ヤルムーク川で対決しますが、
ナント、イスラム軍、あの強大なローマ軍団を打ち砕いてしまいます!
さらに勢いづいたイスラム軍、シリア全土を制圧するだけでなく、
南下してエジプトに進攻し、西暦 661 年、
これを攻め滅ぼしてしまいます!
この頃のシリアやエジプトには、ユダヤ教徒や、
ビザンツからすれば異端と見なされていたキリスト教徒が
数多く住んでいました。
これらの異端のキリスト教徒にしてみればビザンツこそが敵であり、
税金を払いさえすれば OK 牧場!をスローガンに掲げたイスラム軍のほうが
統治者としてはより好ましかったようで、
イスラム支配の手助けをするキリスト教徒も多くいたとのことです。
イスラム帝国の拡大 ウイキより
DieBuche - 次のものを使用した投稿者自身による著作物:http://guides.library.iit.edu/content.php?pid=27903&sid=322018 (archive1, archive2) (via Image:Age_of_Caliphs.png)Image:BlankMap-World6.svgThe Times Concise Atlas of World History ed. by Geoffrey Barraclough published by Times Books Ltd. ISBN 0-7230-0274-6 pp. 40-41., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10802592による
こげ茶色:モハメット下における領土拡大、622 - 632
茶色:正統カリフ時代における領土拡大、632年 - 661年
薄茶色:ウマイヤ朝時代における領土拡大、661年 - 750年
あっという間に拡大したのですね!
さて、マホメットによるイスラムの布教活動を
ソ連のボルシェビズムに比してみましたが、
拡大のイメージとしてはあながち的外れではないように思えます。
マホメット時代の出来事をイメージするのはナカナカ大変ですが、
レーニン時代の出来事に関しては多くのフィルムも残っており、
より容易くイメージできます。
そもそも論ですが、マルクスが言うには、
「資本主義は自らが持つ矛盾によって必然的に瓦解し、
最終的には共産社会となる」
とのことですが、
ならばレーニンは
安全なスイスの別荘で指をくわえて見物してればよいだけのはずですが、
どういうわけか革命などという方法で自分の主張を達成しようとする・・・。
成功すれば「革命の指導者」ですが、
失敗すれば、単なる「テロリスト」です。
マホメットの場合も、彼がウフド山の戦いで石に当たって戦死していたら
イスラム教は広まることはなかったと思います。
イスラム教とは反対に、キリスト教は、
イエスが死ぬことによって広まる結果となりました。
歴史の興味深いアイロニーです。
ボルシェビキが政権を掌握後は赤軍 vs 白軍の壮絶な内戦が始まりますが、
それに打ち勝って漸くソ連邦という形で共産主義に基づく国家が成立。
これに収まらず、レーニンは、コミンテルンの指導の下に、
自分らが唱える共産主義思想を世界中に拡散しようと試みますが、
マホメットはもっと直接的に武力を用いてイスラムの布教に努めます。
有名な「コーランか剣か」ということですが、
実際には、「コーランか剣か、どっちも嫌ならば税金を納めろ!」
ということだったらしいです。
因みに、最近では「コーランじゃなくってクルアーンだ!」ということですが、
いつものようにガン無視して進めていきます。
で、実際のところ、
イスラム支配下の地域には数多くのユダヤ教徒やキリスト教徒がおり、
彼らは税金を支払っている限りは信仰の自由が認められていただけでなく、
ムスリム=イスラム教徒であれば負うべき義務も免除されるなど、
イスラム教の支配は他教徒に対して寛容であったと言われています。
共産主義者の統治は情け容赦がなかったわけですが・・・。
で、各地で起こる反イスラム勢力の制圧に成功したマホメットに対して
アラビアの多くの部族連は彼に従う形となり、
ここにマホメットとその仲間はアラブにおける一大勢力となるわけですが、
結局のところ、イスラム教の教えに積極的に魅せられて我も我もと従った、
という形には見えず、
イスラムの力が拡大するにつれて、悪く言えば「勝ち馬に乗る」、
よく言えば「いつもいつも小競り合いを繰り返していた我々であるが、
マホメット氏は実力もあるし、ナカナカ良いことを言うオトコであるから、
一同、彼の下で仕事をしてみようじゃないか!」
というカンジで集まったのではないのかな?
と思ってます。
その後、マホメットの死後、イスラムの指導者の間では
教義や指導者の出自の正当性などに関する意見の相違から
早くも今日に至るまで続く内紛が生じるわけですが、
ボルシェビキもまた同じく、思想の解釈や政策の方向性の違いなどから
血で血を洗う身内同士の争いが生じるのは、
皆さまもよくご存知のことかと思われます。
カール・マルクス ウイキより
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=478722より
マルクスはユダヤ教徒の出自を持ちます。
彼自身は嫌がっていたようですが・・・。
要するに、ロシア革命は、
「マルクスの思想を借りて行われたレーニン一派のクーデター」、
と考えるのが最も分かりやすい説明かと思われます。なぜなら、
マルクス主義ではない社会主義勢力も数多くいたわけですから・・・。
これらはみんな処刑~収容所送りにされてしまいます・・・。
生き残るためにどんどん変質を遂げていった共産国家のソ連ですが、
1989 ~ 1991 年にかけて結局は崩壊してしまいます。
中国共産党は未だ生き残っておりますが、
もはやマルクス本来の共産主義基本概念のかけらもなく、
残ったのは、
「いかなる手段を用いても自らの党を守り切る!」
という意志だけのように見えます。
キムくんに至っては、
共産主義の看板を掲げた中世のお城の中で、日々、
裸の王様を演じることに余念がありません。